東京コウモリ探検隊! 探索録
文体のこと
文体といえば、横浜市の関内駅近くにある体育館である。横浜文化体育館。略して横浜文体、または文体。神奈川県民にはよく知られた施設だが、神奈川県じゃない民にはまるで知られていない施設と言える。この建物、最近建て替えられた。仕事の関係で年に何回かこの前を通っていたので、その解体から新築工事の完成まで見届けることになった。外壁が出来上がった時に、このサイズはバスケットボール向けなのだろうと思ったものだ。新しい建物の名前は「横浜BUNTAI」。ブンタイの名前が残ったのだった。さて、今回話をしたいのはこのブンタイのことではない。
文体とは、辞書では文章の形式、スタイルなどとされている。あるいは、作者特有の文章表現とも説明されている。小説にしろノンフィクションにしろメールにしろ、文章には書き手特有の個性というものがあふれている。あふれていないこともある。ベタ記事とかね。
文体のことを考えるようになったのは生成AIのせいである。生成AIは、皆さん既にご存じのように、ちゃんとした文章を吐き出してくれる。おおむね自然な日本語だ。ビジネスの定型文なんかはもう生成AIに任せてしまった方が楽なくらいだ。こんな時代にAIには書けない、人間だけが書くことができる文章、文体というのはあるのだろうか、と考えた。そこで思いついたのが東海林さだおである。
東海林さだおは漫画家として有名であるが食べ物などのエッセイでも知られている。私はそのエッセイのことをまったく知らなかったのだが、週刊朝日に連載していたエッセイが雑誌休刊のため2024年から朝日新聞に移ってきて初めて目にした。これはなんだ、新聞の紙面半分を占領してこんな文章を書いてもいいのか?という面白さだった。新聞というと役に立つ、ためになる、価値があることが書かれているものだが、東海林氏の文章はその対極、役に立ちそうもないし展開がシュールすぎて何かもう世間の壁を越えてどこかへ飛んでいってしまう内容なのだ。これはほめている。AIはこのような文章を書けるだろうか。単に文体、言い回しをまねるだけならできるだろう。しかしこのシュールな視点と展開はコピーできないだろうと思う。
ところで東海林氏の文体は「昭和軽薄体」というものだそうだが、それに該当する作家は何人もいてそれぞれ特徴が異なるため、統一されたスタイルがあるわけではない。初期の椎名誠が昭和軽薄体ご本人なのだが、椎名誠、面白かったなあ。
AIとは別にネット文体というのも存在する。これは多くの人々が自らホームページを作り始めた1990年代後半から徐々に現れた文体である。その特徴は、
改行が多い。
しかも改行する時は空行もついてくる。
文の長さも短くなってくる。
だから妙にスカスカな外見になる。
というものである。これは印刷物のデザインの良さをパソコン開発者が理解できなかったのが原因と言える。かつてのDOSの時代、いやさらに昔から、パソコン画面上では文字をぎゅうぎゅうに詰め込むように表示していた。情報量の密度を最大化しようとしていたということ。行間とか字間とか完全無視。そのため紙の本に比べると読みにくい。読みにくさを解消する方法として自然発生したのがこのネット文体と言える。
それにWindowsはフォントがダメダメだった。Macはまだましだったが、あらゆるアプリケーションとあらゆるユーザーが行間や字間を理解し、気を使うというレベルには達していない。まあ、私もそこまで気が回らない。HTMLではそこまでコントロールすることが難しく、あきらめている。
ただ、このネット文体がネットの外にまで、印刷物にまで進出するのはさすがにどうなのだろう、と思う。
最近増えてきたのが、最初に記事の目次や概要を書く例が増えてきたこと。note(note.com)あたりがその代表。目次は親切なように見えるが、場合によってはネタバレになってしまうこともあるわけで、良し悪しではある。目次を気にしすぎると全体の構造や文体にも影響が出るのは必至なので注意は要る。
とにかくAIの登場で平均的な文章は増えてきたように思うし、これからは大量に生産されるのだろう。そのおかげで悪文も相対的に減るだろうと期待できるが、飛び抜けた文章もなかなか出てこなくなるかもしれない。平凡を超えた文体文章を生み出せるか、そこが宮本隊長の当面の挑戦となる。
宮本隊長のこの文体は話し言葉ではない。普通の文章よりもくだけた語、語調を使うが、会話やしゃべりをそのまま文字にするのではない。話し言葉をそのまま文章にしても読みにくいだけだ。会議の録音をそのまま文字起こしてもまともな文章にはならない、というのは経験した人も多いのはないだろうか。あー、とか、うー、とか、妙な口癖が入ったり、同じことを繰り返したり、話し言葉は文字にすると意味がわかりにくく論理的な文章としては成立しないものである。
宮本隊長の場合、声に出しはしないが、頭の中では音読している。リズムには注意しているが、五七調とか韻を踏むとかには興味はない。この文体はどちらかと言うと悪文に見なされてしまうだろう。そもそも大学入試には取りあげられない文体を目指している。論文を書いたら全文読まずに却下されること間違いなし。
ところでこの文章が名文かどうかはさておき、無学習でAIが生成できるものではないというのも確かである。そこがAIの限界と言える。
筆了2026年6月
